『正法眼蔵の哲学性(グローバリストの基礎知識2)』青山先端技術研究所・エグゼクティブフェロー 中嶋隆一

○正法眼蔵とは
・正法について
正法とはそのまま正しい教えのことです。釈尊が伝えようとした正しい教えです。この正法について禅宗では、釈尊が後継者の摩訶迦葉に以心伝心でその教を伝えたということがあります。釈尊の説法は経典としてたくさん残っていますが、それは個々の信者や弟子に対して導いたものであり。いわば個々の理解に合わせた方便ということになります。方便であるために経典により多少の齟齬、矛盾が生じます。釈尊の悟った真理は唯一摩訶迦葉に伝わった正法のみということになります。
以降の仏教の宗派の歴史の主流が万人救済とともに正法の探求つまり正法眼藏を求めての競争であり変遷ということになります。
この探求が法相宗では、唯識における五感と自我の認識たる意識を超える認識たる第八阿頼耶識を生じたとも言えますし、密教はその唯識を超えて、方便たる仏教を言葉で説明するための顕教に過ぎないとしてひとくくりにして、正法はそもそも言葉では認識できない密教の範疇であり修行によりのみ体得し得るものとし、修行によりました。
しかしながら道元は、そのことに疑問を持ったようです。確かに只管打坐によって感じられる世界ではあるが、身につけた感覚や知恵を言葉に出来ないようでそれを正しく身に着けたと得るのでしょうか。多くの例えや表現を駆使して表してこその体得と言えるのではないでしょうかということだと思います。そこで道元は実技書の普勧坐禅儀を示して後に100巻の大著を用いて正法を言葉で表そうとしたということでしょう。

 

○有時の哲学性について
・正法眼蔵が哲学と言われる所以
仏教において多くの経典がある中で、唯一正法眼藏のみが哲学書と言われる所以は、平易な言葉で具体的に多様な表現により人間を表したところにあります。特に存在である「有」と時間の流れという意味の「時」の関係に関して示した有時の巻において存在するとは何かを示したところは、多くの人からハイデガーなどとの比較をされているところです。
・有と時の不分性と不確定性
道元の言う存在と時間の不可分性は、存在なくして時間なし、時間なくして存在なしといったところにあります。このことは一般的に考える時間の停止と存在と大きく異なります。時間の停止は変化の停止に過ぎないで、そのものはそこにそのままあり続けるという認識が普通です。道元は過去や未来の時間は物がそこにある要素の全てであり、時間の停止は存在そのものの消失といいます。その言い方が意味は違いますがまるで量子力学の不確定性原理であり、感覚の最新性を感じます。
・過去と現在の同一性
時間は過去、現在、未来があり、その量的な割合を見ると、現在は刹那という不確実な瞬間であり、時間の多くは大きく横たわる過去と未来であるという感覚が普通ですが、道元は全ての時間の現在性を示しています。道元の因果律である因果不二では、過去はあくまでも現在思う過去であり、それは過去において見聞し身につけた過去であり、現在の存在を組みててている構成要素になっています。未来も独立した存在ではなく、現在の存在を因とした結果でありそれも現在の存在の構成要素です。その意味で過去も未来も現在の存在なくしては存在し得ない因であり果であり、過去を過去として固定することも、現在から過去を分離することもできないという意味でも、時間を停止することは自己の存在を否定することになるわけです。
・有時から見た世界ということ
このことは世界という空間からも同じことが言えます。過去にある場所にいて認識していたものがその時点の世界であることから、世界もまた有と言われ果である現存在の因であり構成要素であると言えます。その意味で世界は存在の認識であり、空間もまた認識であることになります。

 

 

 

【執筆者プロフィール】
中嶋 隆一 Ryuichi NAKAJIMA
EPIC PARTNERS株式会社 監査役。青山先端技術研究所・エグゼクティブフェロー。文筆家。
防衛省で31年間勤務し、研究開発業務に従事。定年退職後は、先端技術の研究・コンサルティング、大手企業のCVCのアドバイザーボード、公共領域のコンサルティング支援を行う。
誘導武器開発官付及び先進技術推進専門官、防衛省幹部学校において技術教育教官の経験を活かして、経営者・先端技術研究者等へのコーティングも行う。航空機搭載の電子とミサイルのスペシャリストとして、執筆、講演、セミナー等を幅広く実施。

 

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