『平安末期の女流日記文学の見方(グローバリストの教養3)』青山先端技術研究所・エグゼクティブフェロー 中嶋隆一

○女流日記文学
おもな日記文学は成立順に、『土佐日記』→『蜻蛉日記』→『枕草子』→『和泉式部日記』→『紫式部日記』→『更級日記』→『讃岐典侍日記』→『建礼門院日記』→『十六夜日記』となりますが、平安文学、それも宮廷サロンなどで繰り広げられた女流文学となりますと蜻蛉日記から更級日記までが一連というところでしょう。

 

○上東院彰子サロン
女流日記文学といえば蜻蛉日記、更級日記、和泉式部日記、紫式部日記の4作品ですが、それぞれに方向性や性格が全く違うのに気が付きます。当時の紙の事情とすると、従来の溜め漉きの技法に加えて、流し漉きの技法が開発され生産量が爆発的に増加し、それによって紙を使って、中宮などのサロンがその文化度を宮廷内での評判や書写数などで競っていたのかもしれませんし、夫々に目的と位置づけが異なるものが残ったのかもしれません。もしかすると女房たちの中には書いてみたが消え去った作品があるのかもしれません。
話をもとに戻しますと、この4日記は時代順に、蜻蛉日記、和泉式部日記、紫式部日記、更級日記となります。この前3つは明確に藤原氏に関係するものであり、孝標の娘にしても頼通とのパトロン関係が疑われています。これは蜻蛉日記の存在が、兼家の権威の伸長や誇示に役に立ったので、道隆、道長がその後も中宮のサロンを使った権威の誇示に女流文学の伝布というものを利用したということかもしれません。
日記と言われますが、この紫式部日記を除く3作品はいずれも日々の諸事を記録する日記とは言い難く、自己の感情や人間性を明確に押し出して文字通りもののあわれを語ります。これは源氏物語とつながることも多く、多分当時でも、ほとんどの人は物語として読みそして書写をしていたのだと思います。

 

○蜻蛉日記
蜻蛉日記は藤原道綱母の作品です。この頃の女性は直系で母、娘で示すか、父親の職位や渾名で示すかですが、藤原家の隆盛を築いた藤原兼家の第2夫人であり、その隆盛を見た人物でもあります。その蜻蛉日記は明確に源氏物語の縮小版であり、権勢を求めて貴族社会を駆け上っていく兼家、そしてその豪腕家故の自己中心的な行動に心身ともに振り回される彼を取り巻く女性達。女性陣にも筆者という本朝3美人で和歌の達人という出自以外は最高の女性を中心において、正妻であり後の藤原の権力の頂点を極める道隆、道長兄弟を生んだ時姫や帝の系統でありながら認められず育ちの故か軽薄な行動をする町の小路の女などを据えて、女性の有り様からの源氏でいう「もののあわれ」を描いています。

 

○和泉式部日記 
敦道親王の正妻は道隆の三女、後妻は道隆の盟友である藤原済時の中の君、前半は敦道親王との和歌のやり取りで、後年の常識になっている敦道親王の和歌の才を示しているが、その中でその才を引き出したのが和泉式部との文の遣り取りであった。特に、日記内では手枕の袖の歌を引きだした経緯がのが、和泉式部の和歌の能力であることを明確にわかるように書かれています。また後半は、和歌を書かずに敦道親王の正妻である道隆側の藤原済時の次女との確執とその異常さが物語的に書かれています。

 

○更級日記
受領階級で田舎で育ち内親王の乳母を目標にしていた孝標女ですが、その血縁を見ると、父型の曽祖父は道真で母方の伯母は道綱母です。その才能は抜群であり、平安後期のこの時期に書かれたとされる物語の写本ではなくて伝聞や転載情報が出るたびに、その作者第一候補は必ず菅原孝標女です。多分確実だとせれているのは、孝標の女が大好きな源氏の続きを書こうとしたのかと言われている『浜松中納言物語』と『夜半の寝覚』があります。

 

○紫式部日記
紫式部日記は多くの女流作家の批評で有名ですが、実際その主体は中宮彰子の第一子の出産の記録です。道長がどのように出産を待ちわびたか、一条天皇がどのくらい喜んだかを記録することで、長徳の変を始めとする一条天皇と中宮定子を巡る様々な宮中の問題を全て払拭され、新しい秩序だった宮中の完成を明示しているのだと思います。
紫式部日記は他の女房、特に清少納言に対する辛辣さが有名ですが、これには理由があります。清少納言の教養を最も示す場面に香炉峰の雪があります。この分は白居易の七言律詩の一部で漢文ですが、もうその当時ひらがなが行き渡って普通女性はひらがな書きの和文が一般教養なのに、清少納言は漢詩、多分当時の教養人のトップである藤原公任の和漢朗詠集を読んで、漢詩を教養にしていたということでしょう。一方、紫式部の源氏を読むと、各所に日本書紀の引用が見えます。ここで日本書紀ですが、古事記と併せて記紀と言われていますが、漢字を使った和文で書かれた古事記と異なり、日本書紀は正史であり国の正規文書として漢文で書かれています。つまり、当時の漢文の最も重要な書物は日本書紀なのです。漢文の素養があれば物事を記載しようとすれば必ず日本書紀が出てくるはずなのです。つまり、漢文を当然の教養として身につけた紫式部が、漢詩、それも多分原典ではなく和漢朗詠集の漢詩の知識をプライドにする清少納言に対し、強い違和感を持つのは当然なのです。そして源氏の中で光源氏に語らせる物語論は、事実を超越する虚構によって、それにまさる人間の真実を追求することが目的であり、蜻蛉日記であっても、和泉式部日記であっても自らの境遇を素材にして人間を描いたものであり、それこそが日記文学を中心とする女性文学、特に紫式部の文学意識そのもので、随筆である枕草子では真実は書かれないということでしょう。後年、本居宣長が「もののあわれ」と表した源氏の真実性に対して、枕草子の「いとおかし」の人間洞察の差を、明確に主張したのとも考えられます。

 

 

 

【執筆者プロフィール】
中嶋 隆一 Ryuichi NAKAJIMA
EPIC PARTNERS株式会社 監査役。青山先端技術研究所・エグゼクティブフェロー。文筆家。
防衛省で31年間勤務し、研究開発業務に従事。定年退職後は、先端技術の研究・コンサルティング、大手企業のCVCのアドバイザーボード、公共領域のコンサルティング支援を行う。
誘導武器開発官付及び先進技術推進専門官、防衛省幹部学校において技術教育教官の経験を活かして、経営者・先端技術研究者等へのコーティングも行う。航空機搭載の電子とミサイルのスペシャリストとして、執筆、講演、セミナー等を幅広く実施。

 

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